千利休との一期一会〜探访日本茶圣千利休,人生若如一期一会

中国人留学生のりんごです。私の大好きな日本語は「一期一会」です。

来日してから、たくさんの場で自己紹介してきました。そのたびに、最後にいつも「私の好きな日本語は「一期一会」です」と加えます。そのとき、日本人の反応はいつもこうでした。

「へぇ〜、りんさんはしぶいですね」

「よく知っていますね」

いつこの言葉と出会ったかをはっきりと覚えていないんですが、確か授業中、日本の茶道文化を学んだときに、「侘び」「寂び」に加え、「一期一会」と出会いました。「侘び」と「寂び」の世界はその当時の私は理解できなかった(実は今もあまりわかっていない)が、「一期一会」だけには心を打たれました。

こうして「一期一会」が茶道に関わる言葉であることを知りましたが、具体的に誰の言葉であるかはこれまで知りませんでした。

なぜ私は「一期一会」に惹かれるのだろうか。「一期一会はどのように生まれたのだろうか。その答えもにありました。

期一会」は千利休の一番弟子とされる山上宗二の言葉ですが、その言葉は利休の茶の湯の精神を伝えるための言葉であり、利休の教えとされています。私の大好きな言葉である一期一会を育んだ父である千利休はどんな人なのでしょうか。

取材に行くまで知らなかったのですが、千利休は堺市生まれでした(日本人も意外と知らないようです)。千利休は最初から茶人だったのではなくて、もともとは商人だったと聞いてすごく驚きました。千利休は堺の魚問屋「ととや」(発音が可愛い)に生まれたが、若いときから茶の湯に親しみ、17歳にお茶の世界に入りました。今回、千利休の足跡をたどる旅に出かけました。

堺区にある文化観光施設さかい利晶の杜では、千利休と堺のまちに関わった人々を画像と音声で紹介しています。

 

そもそもなぜ商売の町の堺でお茶の文化が盛んになったのでしょうか?

お茶は平安時代に中国から日本に伝わったそうですが、お茶は非常に貴重で、上流階級(武士、貴族など)の限られた人々だけが口にすることができました。利休が生まれた安土桃山時代でも、お茶はまだ庶民の生活に広がっていなかったそうです。

そんな中、南蛮との貿易が盛んだった堺では、地元の豪商たちは高級品であるお茶や茶道具などを手に入ることは難しくなかったそうです。そんな一部の金持ちの間で流行っていた茶の湯は、社交や商談の際には欠かせないものになりました。ここも堺らしいところだなあと思います。さすが商売の町ですね。

そこから、千利休はお茶の革命を起こしました。千利休以前は、中国からの豪華・派手・華やかさが求められていたが、利休は、庶民にも茶の湯が楽しめるよう、従来の茶道具を、素朴なものに変え、時代の流れに反した自分の美学を追求していました。さらに、もともと4畳半の茶室を2畳にまで小さくしました。

 

 

 

さかい利晶の杜の横にある千利休屋敷跡。

茶の湯に常用していたといわれる椿井がある。利休がいたのと同じ空間に今、私はここで立つことができました。

また、千利休は茶室の入り口に、非常に狭い「にじり口」を設けるように考案しました。誰でもからだを縮めないと茶室に入れないことになっています。武士であろうか、庶民であろうか、茶室に入れば、みんな平等であり、茶室では身分の差はないということ千利休が求めている茶の湯の精神でした。「一期一会」もここから生まれた。「あなたと茶室でこうして出会っているこの時間は、二度と巡ってこない一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今、互いに出来る最高のおもてなしをしましょう」という心です。

このように、千利休は茶の湯文化を大成しました。時代の潮流に反した自分の美意識を貫き通して、全てをその2畳の空間に注ぎ込んでいました。


実際の茶室はどんな雰囲気だろうか。大仙公園内には堺市茶室「伸庵」と「黄梅庵」があります。

大仙公園にある茶室入り口の正面。鮮やかな色の帽子と服をしている人は誰かな?

さかにゅーの編集長です!

大仙公園内にある堺茶室、伸庵です。すごい1枚!射し込んでくる日の光は、一生懸命自分の存在感をアピールしているように見えます。

伸庵の隣にある「黄梅庵」(おうばいあん)。内部非公開。

にじり口はちょうど緑に隠されて見えないです。カメラウーマン失格。( ;  ; )

茶室に入る前にお客さんが待つところ。

茶室を見学してから、「侘び」と「寂び」を少しわかるようになった気がします。

お茶は中国から伝わった文化ですが、中国語では、一期一会という言葉はありませんし、一期一会と同じ意味をする言葉もありません。中国人は人と人の出会いはどう思っているだろうか。答えは次のページにあります。

さかマガ12月号発行中
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