【ぶらっと堺をあるこう!】『ぶらさかい』中区・陶器(とうき)篇1

こんにちは、編集長(ふ)です!

今回からスタートしました【ぶらさかい】は、堺のまちをぶらぶらしながら、むかしの人たちの残したものや言い伝えをみつけて、堺のひみつや面白いところを楽しもというシリーズです。毎回記事の最後には、ぶらさかいクイズもあるので、答えを考えてみてくださいね!

1回目にぶらぶらするのは、堺のど真ん中にある中区(なかく)で、ちょっとふしぎな名前の「陶器(とうき)」地区です。
陶器って、あのおちゃわんとかお湯のみとかの陶器のことなのかな?」
と思ったあなた。正解です!! この陶器地区は、焼き物の陶器ととっても深いかかわりのあるエリアなのです。一体どんなかかわりがあるのかをみつけに、ぶらっと陶器地区を歩いてみましょう!

▲今回のぶらさかい陶器篇の案内人、岡村理良ハカセです。中区のことはチョー詳しいスゴイ人なのです。

 

今回、陶器のまちを案内してくれるのは、このまちで育ったまちのものしりハカセの岡村 理良(おかむら ただよし)さんです。岡村さんがまず案内してくれたのは、泉ヶ丘東(いずみがおかひがし)中学校の北の道路わきです。あたりはひろびろとした畑や田んぼばかり。こんなところに何があるのでしょうか?

 

▲陶器地区のなんてことない田園風景。でもこの風景に秘密があるのです。

――ハカセ、ここに陶器のヒミツがあるのですか?
岡村ハカセ「見てください。あそこにおまんじゅうみたいに盛り上がっているちいさな山があるでしょう。実はあれは古墳(こふん)なんです」

▲これが古墳!!

――えっ。草ボーボーやけどめっちゃのぼりやすそうなのが古墳ですか!? ぼくがこの近所の子どもだったら確実にのぼって遊んで怒られてるとおもいますけど、古墳ってことは誰かのお墓なんですよね!?
岡村ハカセ「そうです。これは『陶器千塚(とうきせんづか)』と呼ばれています。塚(つか)とはお墓のことです。作られたのは6世紀ごろと言われていますから、1500年ほども昔です。そのころ朝鮮半島から渡ってきた須恵器(すえき)作りの集団がいて、『陶器千塚』はその長などリーダーたちのお墓ではないかと言われています」

▲こちらも古墳。どっちの古墳があなたの好み♪

 

――千塚ということは、1000コも古墳があるんですか!? 陶器は古墳だらけのコフンタウンじゃないですか!?
岡村ハカセ「いやいや千はたくさんあるという意味でしょうね。この地域に80基あったという人もいれば、50基あったという人もいますが、明治時代に農地の開墾(かいこん)でずいぶん壊されてしまいました。この泉ヶ丘東中学校の中にも、昔は7つの塚があったそうですが、それも壊されてしまいました」
――えーお墓、こわしちゃったんですか。学校に昔の人のおばけとかでないですかね??「 東中学の七ツ塚」とかいい怪談ができそうですけどね。

岡村ハカセ大丈夫でしょう。それを言い出したら、古墳に囲まれていて、地面を掘ったら遺跡だらけの堺市ですから、いちいちお化けが出ちゃってたら大変ですからね」

▲こちらの学校の敷地にも「陶器千塚」の古墳が何基もあったそうです。

 

ヤマト政権(せいけん)が、地方の豪族(ごうぞく)をしたがえて、「日本」という国が生まれ、形になりはじめたこの時代。そのころ陶器や南区(みなみく)に広がる一帯は陶邑(すえむら)と呼ばれ、須恵器(すえき)という焼き物(やきもの)が作られるようになりました。
それまで日本で作られていた土師器(はじき)とちがって、ろくろを使って形をととのえて高温で焼く、当時の最先端の技術で作られた焼き物でした。

▲堺市博物館の展示されている須恵器の大きな甕。

 

岡村ハカセ「須恵器を焼く登り窯(のぼりがまは、南区の高倉(たかくら)大庭寺(おおばでら)でも見つかっていて、大庭寺のものが一番古いようです。このあたりで作られた須恵器は、ヤマト政権の権力者(けんりょくしゃ)が全国の豪族(ごうぞく)にプレゼントしていました。日本各地で陶邑で作られた須恵器がみつかっています。須恵器はとても価値のあるものだったのです」
――高級ブランドの腕時計高級車をおくってもらってうれしいみたいなかんじですかね~。いますよねー、そうやって、モノで人をつる人!!
岡村ハカセ「そうですね。海外からきた高級ブランドで威光(いこう)を見せつけたんですね。そして陶邑では、須恵器を作っていただけでなく、あちこちで作られた須恵器が集められて、検査・検品をしてから、全国へと運ばれていったようです。陶邑は須恵器の生産物流(せいさんぶつりゅう)コンビナートのようなところだったのです。次は、その証拠(しょうこ)を見にいきましょう」

岡村ハカセと一緒にまちをぶらり。途中で岡村ハカセのお知り合いの木工所の方にご挨拶したりします。くねくね道が古いお家と緑の間を通るのどかなエリアです。

▲中西木工所さんでは、木枠とか作られているそうです。暑い中、お仕事をされていました。

 

▲左手の樹木は柑橘類です。日当たりが良くて美味しい果物が育ちそうです。

 

陶器についての話をききながら、ぶらぶらと歩いているうちに目的地へたどりつきました。

――ここはどこでしょうか? ひとけのないただの道ですよ。ハカセ、道を間違えたんじゃないですか?
岡村ハカセ「このフェンスの向こうをみてください。これは精華高校(せいかこうこう)にある古墳です」
――なんか林みたいなのがありますね。これも古墳なんですかー。さっきのおまんじゅうよりは大きいですね。
岡村ハカセ「ええ、この古墳は御坊山古墳といって、今に残る「陶器千塚」の中で、ただひとつの前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)になります」
――鍵穴みたいな形をした古墳ですよね前方後円墳って。前方後円墳は古墳の中の古墳、メジャー級古墳やないですかー!!

▲小さいながらも前方後円墳の御坊山古墳。

 

御坊山古墳は、まわりに堀はなく、大きさは30mほどです。三重の堀に囲まれ全長486mもある大仙陵古墳(だいせんりょうこふんas仁徳天皇陵)に比べれば小さな古墳ですが、前に四角の方墳(ほうふん)、後ろに丸い円墳(えんふん)をつなげた立派な前方後円墳なのです。

岡村ハカセ陶邑の長のお墓が、時の権力者と同じ前方後円墳であったことは、両者に強い関係があった証拠ではないかと思います」
――それだけ当時の王様が、陶邑の長を大切に扱っていたってことなんですね。須恵器をプレゼントしたり、同じお墓を作らせたり、王様はなかなかカシコイですね。
岡村ハカセ「実は、このお向かいにも面白いものがありますよ」
――えっと、お向かいもなんだか学校のグラウンドみたいですね。

▲壁の向こうに「陶器千塚」の古墳がある。

 

岡村ハカセ「こちらも精華高校の土地で、そこにも『陶器千塚』の古墳のひとつがあります。ここからはちょっと見えませんが、『陶器千塚29号』と名付けられた古墳があるのです。これを調査したところ、須恵器耳環(みみわ)ガラス玉などがみつかりました。その中に須恵器円筒管(すえきえんとうかん)というものがあって、棺桶(かんおけ)として使われていたようです」
――耳環や須恵器の棺桶、いろいろ入ってたんですね。やりますね29号!! 一体、29号に入ってた人はどんな風に埋葬(まいそう)されていたのですか?
岡村ハカセ「それなんですが、このお墓では火葬(かそう)されていたようです。日本のそれまでの習慣では、すべて土葬(どそう)でした。なので、ひょっとしたら日本で一番古い火葬のお墓なのかもしれません。ここからも、陶邑で須恵器を作っていた人たちが、それまで日本で暮らしていた人たちとは違う文化をもった人たちであることの証拠といえるのではないでしょうか」

 

 

この「陶器千塚」の埋葬方法ですが、より正確にいうと、多く見られたのは、窯のようなお墓を作り、お墓全体を火にかける「火化(かか)」という葬送方法だそうです。お墓の形態も、百舌鳥古墳群のものとも違っているのだとか。

自分たちの生前の仕事が窯と火を使う須恵器作りだから、それに合わせて窯の形のお墓を作って火で燃やしたのだと考えたら、なんだか昔の人もロマンチックだなと思ってしまいます。

 

 

 

▲ぽこぽこした穴は須恵器をつくるために土をとった跡。(堺市博物館より)

 

それはそれとして、ちょっと気になることも出てきました。
――どうやら大陸や朝鮮半島から来た人たちがここで須恵器を作りはじめのは確かなようですね。では、なぜその人たちは、他ではなくこの地区を須恵器作りの場所に選んだのでしょうか。陶器地区は、何か理由があって須恵器センターの場所に選ばれたのでしょうか?
岡村ハカセ「いい質問ですね。このあたりに陶邑が作られたのにはいくつか理由があります」
――ふむふむ。
岡村ハカセ一つ目は、須恵器を作るのに向いたがあったこと」
――そりゃ材料がないと作れませんものね。たいせつ。
岡村ハカセ「そして次の二つ目の理由は、ちょっとこの先まで歩きましょう」
岡村ハカセは、そのまま道を進んでいきました。すると、その先に下り坂があって、細い川が流れているのが見えました。

 

 

▲下り坂を降りていくとその先に川が見えてきました。

 

――まぁ素敵な……小川ですねーこの川はなんという川でしょうか?
岡村ハカセ「これは陶器川です」
――おーずばりそのものの名前。陶器の陶器川。

▲陶器川を上流に向けて撮影。もう少し上流の斜面からは登り窯の跡が見つかっている。

岡村ハカセ「このエリアで須恵器が作られた理由の二つ目は、陶器川が長い時間をかけて地面を削って造り出したこの土手のような斜面があることです。須恵器が来る以前の土師器は地面で直接焼く野焼きをしたのですが、須恵器登り窯(のぼりがま)を作って焼きました。それはこんな斜面をほって作ったのです。この場所より少し上流では、調査したところ登り窯のあとが見つかっています。このあたりも調査をすれば発見されるかもしれません」
――あ、なーるほど、中区のこのあたりや南区だと坂も斜面もおなかいっぱいありますものねー。堺区あたりだと三国ヶ丘を掘るしかないですもん。
岡村ハカセ「逆にあんまり険(けわ)しすぎてもだめなんですよね」
――ほどよい斜面の中区!! 朝鮮半島から来た人が、うん、これはいい斜面だっていってこのへんに決めたんですかね!?

▲陶器川から登る「ほどよい斜面」。けっこうキツイ。

 

岡村ハカセ「そうかもしれませんね(笑) そしてこの陶器川を使って、船で出来上がった須恵器を運ぶことが出来ました。それが三つ目の理由です。陶器川は石津川につながっていて、海へ出ることもできますからね」
――重い須恵器を自分で運ぶのは嫌ですもんねー。船で運べるとラクチン♪ でも、こんな細い川で船が浮かべられますかね??
岡村ハカセ「それもいいところに気づきましたね。でも、そのはなしはおいおい
――はい、おいおいで(笑)

▲陶器川、下流に向かって撮影。綺麗な風景だけに、コンクリートの三面貼りになっているのがかわいそうな印象です。

 

岡村ハカセ「では、最後に四つ目の理由について。須恵器を作るためにどうしても必要なものが、このあたりには沢山あったのです。それが無くなると須恵器が作れなくなるので、それがある場所に新しく登り窯を作ったのです。どんどん引越しをしたので、陶器地区を含む陶邑全体では500年間で500基もの登り窯が作られたのです。さて、その必要なものが何かというと……」

では、ここでクイズです!!
陶器が須恵器の物流センターになった四つ目の理由となったものはなんでしょうか? それは須恵器を作るために必要なもので、当時はたくさんあり、登り窯の近くで無くなると、それがある所に新しく登り窯を作ったのだそうです。さてそれは?

クイズの答えは次回記事で発表しまーす♪

 

【次回予告】
ついにスタートした『ぶらさかい 中区陶器篇』。次回も古墳時代から須恵器作りの陶邑があった陶器の故郷を歩き、さらにディープな焼き物と陶器地区のつながりを案内していきますよー。

さかマガ11月号 10/19発行!!
さかマガ11月号 10/19発行!!