【ぶらっと堺をあるこう!】『ぶらさかい』中区・陶器(とうき)篇2:

こんにちは編集長(ふ)です。

前回からスタートした【ぶらさかい】楽しんでいただけていますか? 第1回中区陶器篇に引き続き第2回も中区陶器をぶらぶらしちゃいますよっ!! 案内していただくのは、陶器にくわしい地元の物知りハカセ・岡村理良さんです!!

さて、前回出したクイズを覚えていますか?
陶器地区は1500年ほど前には陶邑(すえむら)とよばれる地域の一部で、焼き物の一種須恵器(すえき)をたっくさん作っていました。陶邑が日本最大の須恵器センターとなった、その(4つ目の)理由はなんでしょうか? というのがクイズでした。

▲岡村ハカセと精華高校から陶器川へ続く坂道を歩く。陶邑が生まれた理由は、1:土と2:斜面に3:川、そしてもう一つ……。

 

さて……その答えは……
ダダダダダダダダダッダダダン!!
――岡村ハカセ、その答えはなんでしょうか!?
岡村ハカセ「答えは、【アカマツ】です!!」
――アカマツって、松の木の赤松のことですよね? それがどうして4つ目の理由なのでしょうか?
岡村ハカセ須恵器登り窯(のぼりがま)を作り高い温度で焼いて作りました。その時に燃料(ねんりょう)として使ったのがアカマツなのです。アカマツは油が多くふくまれた木で高い温度で燃えるので、須恵器を焼くのにはぴったりでした。そのころの陶器にはアカマツが沢山はえていたと思われるんです」

 

▲こちらは松は松でもクロマツでしょうか? アカマツらしき姿は見当たらず……。

 

須恵器がやってくる前から使われていた土師器(はじき)は、地面のたき火で焼く野焼き(のやき)でしたが、須恵器は「ロクロ」「登り窯」という技術が取り入れられた焼き物でした。
陶邑のエリアには、登り窯を作るのに最適の斜面と、燃料に使うアカマツが生えていました。

▲堺市博物館の企画展「堺に窯がやってきた!」(2018年7月14日~9月24日)で展示中の須恵器。同じ陶邑窯跡群の高蔵寺の窯跡から見つかった。

 

では、ここで、須恵器(すえき)について、もう少しつっこんでみましょう。
くわしーく教えてくれるのは、堺市博物館(さかいしはくぶつかん)の学芸員(がくげいいん)の橘泉(たちばないずみ)先生です。

 

――橘センセーイ! お話を伺ってよろしいでしょうかー!
橘センセイ「はい、どうぞ」
――橘センセイ、土師器(はじき)須恵器(すえき)って何が違うのでしょうか?
橘センセイ須恵器は硬く焼かれていて水をためることができます。土師器は柔らかくて水がもれるというかしみだしてしまいます。だから、須恵器が作られるようになって最初のころは大きなカメが沢山つくられました。水だけでなく、液体を発酵(はっこう)させてお酒なんかを作っていたかもしれませんね」
――お酒作れたらうれしいでしょうねー。しかし、土師器はいいところなしなんですか?

 

 

橘センセイ「いえ、須恵器は火にかけられないので、煮炊きなど料理には土師器が使われつづけました。使い分けですね。須恵器には燃料が沢山いるのでコストがかかるという欠点もありました」
――燃料にするが沢山いったということですか。
橘センセイ「はい。窯の周辺のを使いはたすと、のあるところに移動して新しい窯を作ったようです。だから、陶邑全体で500年の間に800ほどの登り窯の跡がみつかっています」
――陶邑の人めっちゃ引越ししてますね!
橘センセイ「陶邑窯跡群は堺市だけでなく、和泉市や大阪狭山市にもひろがっていて登り窯は同時にいくつも使われていました。まだまだ見つかっていない登り窯もあるかもしれませんよ。考古学(こうこがく)の世界では、陶邑のことを知らないなんてありえないぐらい、陶邑はすごいところなので、堺の人にはもっと知ってほしいですね」

 

▲ロクロを使った「須恵器の壺・甕の作り方」(堺市博物館)だけど、どんなロクロだったかは想像するしかない。

 

――須恵器はロクロを使ったそうですが、どんなロクロだったのですか?
橘センセイ「それが、ロクロは見つかっていないので、実際にどんなロクロを使っていたのかはわかりません」
――え、ロクロ見つかってないンですか!?
橘センセイ「ええ。ロクロを使ったのではないかという穴が地面に開いているいるのは見つかっているのですが、ロクロそのものは見つかっていないのです。だから手でまわしたロクロなのか、足でまわしたロクロなのかもわからないのです」
――でもロクロを使っていたことだけはわかっている?
橘センセイ「ええ。遠心力が発生するぐらいは、高速で回転させて作っていたようです」
――なるほど、ありがとうございました!! またわからないことがあったらお願いします!!
橘センセイ「はい。それではまた」

 

▲陶器川の土手から登り窯の跡が見つかったそうです。

 

 

実際に岡村ハカセ登り窯がみつかったところに連れていってもらいました。

 

岡村ハカセ「さきほどいたところから少し上流にきました。この陶器川の土手から調査で登り窯が発見されたそうです」
――なるほど、この土手も陶器川が長い時間をかけて地面をけずってうまれた土手ですよね。こういう土手の斜面が登り窯を作りやすい、ほどよい斜面なんですねー。陶器が陶邑になったのは、陶器川のおかげもあるンですねー。
岡村ハカセ「そうです。先ほどまでいた下流のあたりはまだ調査がされていないのですが、土手を調べたら登り窯が発見されるのではないかと私は思っています」

▲やや下流のあたり。盛り上がった高台は山のように見えるため「土山」という地名になったとか。石垣と春に咲く桜が美しい岡村ハカセのお気に入りスポットです。

 

 

――古墳時代に朝鮮半島から来た人たちと同じような道を歩いているのかもしれないと思うと、ロマンチックな気持ちになります。しかし、今はこのあたりにアカマツらしきものが見当たりませんが、もう現在は陶器にアカマツははえていないのですか?
岡村ハカセ「陶器ではアカマツは全然みないですね。ただ知り合いから、昔は泉北ニュータウンの高蔵寺のあたりは山の中で(アカマツに生える)マツタケが生えていて、いやというほど食べさせられたという話をきいたことがあります」
――えええー、なんですって!! マツタケ食べ放題!! めちゃうらやましいじゃないですか!! このあたりはマツタケ王国だったのかぁ。
岡村ハカセ「今は昔の話ですね。では、次の場所へ案内しましょう」

 

▲陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)。古い記録に名前の残る由緒ある式内社(しきないしゃ)です。

 

岡村ハカセが、次に案内してくれたのは木々にかこまれた神社でした。

 

――ここはなんという神社なのでしょうか。
岡村ハカセ「ここは陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)です。陶器の神様がいる神社として陶芸をする方がお参りにきたりもします。この神社の歴史は古くて日本最初の歴史書である古事記(こじき)日本書紀(にほんしょき)にも出てくるのですが、それはちょっと不思議な神話(しんわ)なのです」

 

▲陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)の境内。

 

岡村ハカセがとりあげたのは、第10代天皇・崇神天皇(すじんてんのう)の時代にあったこととして記されているお話です。
岡村ハカセ「そのころ人口が何分の1にもなるような疫病がはやったり、叛乱が起きたりして国が大変荒れたのだそうです」
――国が崩壊しかけてるじゃないですか!! 崇神天皇、ピーンチ!!
岡村ハカセ「そうなんです。どうしたらいいのかと崇神天皇が悩んでいると、ある夜夢の中に大物主(おおものぬし)という神様があらわれて、自分の子孫をみつけてまつれば、国がやすらかになるといいます」
――神様もやっぱり子孫のことは心配なんですね。子どもの就職口さがしているようなかんじですかねぇ。ちょっと強引ですけど……。

 

 

岡村ハカセ「神頼みの崇神天皇にしてみれば藁をもすがる思いだったでしょうね。この夢のお告げを信じて、探し出されたのが、茅渟縣(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)の大田田根子(おおたたねこ)という人でした」
――なんとタネコちゃんっていうんですか。女の子だったんですね!
岡村ハカセ「いえ、とはつきますが、男の子です。昔は『~子』は男の子の名前だったのです。で、この大田田根子は、奈良県の三輪山にある日本で一番古いとされる大神神社(おおみわじんじゃ)の神主になって疫病も収まったのだそうです」

 

※茅渟縣(ちぬのあがた)というのは、泉州地方の古い呼び方です。後々までも大阪湾のことを茅渟の海(ちぬのうみ)という言い方が残っています。

 

▲万葉集(まんようしゅう)に書かれた陶邑の歌。「梓弓 末(すえ)のはら野に鳥狩りする 君が弓弦の絶えんと 思へや」陶邑の野原で狩をするあなたとの仲が途絶えることなく続きますようにという、ロマンチックな恋の歌です。

 

――へーじゃー、タネコちゃんは、日本最初の神主、ファースト神主は陶器出身ってことになりますね!
岡村ハカセ「奈良県の大神神社の境内(けいだい)にある大田田根子をまつっている若宮社(わかみやしゃ)のお祭りには、今でも陶荒田神社から神主さんが行っているそうですよ」
――ほー。神話の時代の縁がずっと続いているのも不思議ですね。
岡村ハカセ「いろいろ説はありますが、この崇神天皇こそが、ヤマト政権の最初の大王(おおきみ)ではないかという説があります。大物主は出雲(いずも)の神様である大国主命(おおくにぬしのみこと)の別名といわれる神様ですが、ヤマト政権大和(やまと)・吉備(きび)・尾張(おわり)の豪族(ごうぞく)たちの連合政権とも言われていて、出雲には恨みをかわれているはずなんです。この大田田根子の話は、そういう恨みを和らげるような意図があったのではないでしょうか」
――そうか、ヤマト政権の人たちは、出雲の人たちと戦争してひどい目にあわせているかもしれないンですよね。だから、子孫を神主にして出雲の神様をまつるから許してよってこと? 許してくれたんでしょうかね?
岡村ハカセ「さぁ、どうだったのでしょうか。古墳から発掘されたもので想像するのも面白いですけれど、書かれた物語の裏で本当は何があったんだろうって推測するのも面白いですね」

 

島根県の出雲と関係の深い神様・大物主の子孫が、どうしてこの陶邑の大田の森にいたのか。それをどうして奈良県の三輪山(みわやま)にまつったのか。ひょっとしたらまだ知られてない謎が、この陶器にはまだまだ眠っているのかもしれませんね。

 

▲陶荒田神社には、太田社の他にも小さな神社がいくつもあります。近くの人は、他にどんな神社があるか調べてみましょう。

 

岡村ハカセ「大田の名前は、今ではほとんど使われなくなっていますが、今でも地元の土地改良区が『太田内(おおたのうち)』と名乗っています」
――ハカセ、こっちの小さな神社のトリイに「太田」って書いてますよ。
岡村ハカセ「これは太田社玉の緒社ですね。それぞれ太田々弥古命と天御中主命をまつっているとなっています」
――神社の中にミニ神社があるのって、親亀子亀みたいに、神様の子どもの神社がつくられているンですか?
岡村ハカセ陶荒田神社だけではないのですが、明治時代に国が神道を盛んにするために各地に強制した一村一社制といって、ひとつの村の神社をひとつにまとめられてしまったのです。それでこの地域にたくさんあった神社がこの陶荒田神社に集められてしまったのですが、中には福田の愛宕神社のように一度一緒になったのに、地域に根強い信仰が残って復活した神社もあります。今でも陶荒田神社の近くに、愛宕神社からもってきた鳥居だけが残されています」
――いくら神様だって、やっぱり無理矢理集められたら、同居もうまくいかないですよねー。
岡村ハカセ「元に戻した理由はよくわからないのですが、やっぱり地域の人にとってはもといた所にいてほしいと思ったんじゃないでしょうか?」

 

 

この日は暑い日でしたが、ベビーカーを押した親子づれの姿もありました。地域の人たちにとっては、毎日暮らすエリアにある神社はいいおさんぽスポットで、親しめる場所なのでしょう。やっぱり神社はご近所にあってほしいですよね。

 

さて、ではこの陶荒田神社からクイズです!!
たくさんの神様が同居している陶荒田神社ですが、もともとは人間だったある神様シンボルが社の屋根瓦などに刻まれています。その神様は日本でもトップクラスにメジャーな神様で、そのシンボルは日本人にとってはとても馴染み深いものですが、それは一体なんでしょうか!?

答えを考えながら、次回を待っていてくださいね。お近くの方なら、ぜひ実際に陶荒田神社にお参りにいって探してみてください。

 

【次回予告】
神話の時代からヤマト政権の生まれた時代の陶器をぶらぶら歩きしてきました。次回は時代を遡って武士が登場した時代の陶器を案内してもらいます。みなさん陶器にお城があったって知ってましたか!?

さかマガ12月号 11/16発行!!
さかマガ12月号 11/16発行!!