【ぶらっと堺をあるこう!】『ぶらさかい』北区・大豆塚篇(前篇)「三つの国の国境」:

堺のあちこちをきままにぶらぶら町歩きして、まちの魅力をお伝えしようという【ぶらさかい】。中区陶器篇を終え、さて今回はどこのまちをぶらぶらしましょうか。

やってきましたのは堺市駅のロータリー。目の前にはJR阪和線の踏切があります。この踏切を東へ越えると北区。
踏切の向こうには1人の女性が待ってくれていました。彼女の名は小松清生(こまつすがお)さん。小松さんは、大阪歴史教育者協議会堺支部代表・堺市北区区民評議会のメンバーでもあり、この北区を案内してくれる北区大好きおばさんなのです。
ぶらさかい北区篇のはじまり、はじまり!

 

■大和川の付け替えで生まれ変わった五箇荘村

 

▲様々な活動を通じて堺のことに詳しい小松ハカセ。

 

 

――こんにちは小松ハカセ。雨の中ありがとうございます。聞くところによると小松ハカセは、カルタの達人なんだそうですね。
小松ハカセ「いえ、カルタの達人ではなくて、地域のカルタで地域学習をしてきたんです。このあたりは昔五箇荘(ごかしょう)村といったのですが、32年前に小学校の子供たちと一緒に地域の歴史を題材にした『五箇荘かるた』を作りました。その10年後には同じように『大和川かるた』も作ったんですよ。どちらも教材であり、市民にもアピールしたいと思って、子どもたちに絵を描いてもらって作りました」
――なるほど、小松ハカセはオリジナル地域カルタをつくっちゃうぐらいまちのことに詳しい方なんですね。ぶらあるきが楽しみです!

 

 

小松ハカセ「では、まずはこの道を歩きましょう。この道はなんという道か知っていますか?」
――何でしょう? レンガっぽい舗装をしている道ですね?
小松ハカセ「ここに答えがあります。この石の道しるべに『長尾街道(ながおかいどう)』と書いてあります。道しるべは堺市が作ったものですが、ゲートのような看板や舗装は長尾街道を大切にしている商店街の人たちがつくったものだそうです」
――そんな地域に大切にされるほど、古くからある道なのですか?
小松ハカセ「613年に日本で最も古い国道とされる難波大道(なにわだいどう)が作られるのですが、難波宮(なにわのみや)から金岡まで通っていた難波大道と直角に交わっていたのが、大津道(おおつみち/長尾街道)丹比道(たじひみち/竹内街道)です。長尾街道花田口(はなだぐち)から竹内街道大小路(おうしょうじ)から、飛鳥(あすか=奈良)の都(みやこ)まで通じていました」

 

 

――1400年前!! こりゃまためっちゃ古いですね! 五箇荘はそんな昔からあるのですか?
小松ハカセ五箇荘という名前自体は15世紀後半に登場します。そのころ五箇荘の北花田一帯を支配した郷士・澤池氏は、当時堺港を使って中国・明の国との間で行われていた遣明貿易(けんみんぼうえき)に出資して巨額の富を得たとされています。その後、安土桃山時代には織田信長が堺の豪商(ごうしょう)今井宗久(いまいそうきゅう)五箇荘の代官にして、我孫子(あびこ)に鉄砲工場を作らせました」
――あれ、我孫子って大阪市ですよね?
小松ハカセ「そのころは、まだ大和川が付け替えられる前で、大和川は柏原から北へ枝分かれしながら流れ、淀川と合流していました五箇荘村は地続きで北に広がっていました」

 

▲大和川が付け替えられたのは江戸時代中期。明治時代に生まれた与謝野晶子は「新大和川という運河」と書き残しています。

 

――そうか、江戸時代に大和川の流れを変える大工事をしたんですよね。さすが大和川ハカセ! それで五箇荘村大和川のおかげで北の方とはグッバイ、アディオス、さよならして小さくなっちゃったんですね。
小松ハカセ「そうです。でも増えた土地もあるんですよ。村の東北にあった大きな依網池(よさみいけ)の真ん中に大和川を通したので池が小さくなってしまい、その後に新田ができました。それが常磐(ときわ)町3丁になります」
――はぁ、この堺市駅のあたりから、我孫子や常磐町までって五箇荘村は広い村だったんですねー。
小松ハカセ「なので、今日は五箇荘村にあった五つの集落、大豆塚、船堂、北花田、奥、浅香山のうち、大豆塚(まめづか)をご案内しようと思います」
――りょうかいいたしました!

 

■足にまめづか♪ 大豆塚(まめづか)

▲この十字路が和泉(画面手前)、摂津(信号の左)、河内(信号の右)三国の境になっている。大豆塚村は摂津になります。

 

 

――大豆塚って、それにしても不思議な名前ですね。なにか由来があるのですか?
小松ハカセ「実はよくはわかっていません。小さな塚があったからだと言う方もおられますけど。大きな塚である大仙陵古墳(だいせんりょうこふん=仁徳天皇陵)に対して、小さな塚大豆塚というわけです。でもほんとかな?」
――小さいって意味での豆なんですね。
小松ハカセ「この長尾街道の地域名を織り込んで歌ったこんな歌があります。
 せんど(船堂) 歩いて まだ蔵之前(くらのまえ)
 足に まめづか(大豆塚) できました ああしんぼり(新堀)
 提灯 持って 向井村(むかいむら)
『はるごと』と言って、堺では毎年3月25日に藤井寺の道明寺天満宮まで歩いてお参りに行く習慣が昭和になってもありました。朝早く出かけて、夕方ひょうたんに入れたお酒を飲んでいい気分で帰ってきた堺の人たちがこんな歌を歌いながら、五箇荘の子どもたちにお土産のかんざしを配ってくれたそうです」
――のどかな話ですねぇ。足に大豆塚(まめづか)、言いたくなりますわ。

 

▲南北に走る道路は金岡の軍隊(現在の長尾中学・近畿中央胸部疾患センター・警察学校・金岡公園)へ通じる道として整備されました。

 

足に豆ができるような距離ではありませんでしたが、少し長尾街道を歩いて最初の目的地へ。堺市駅から東へ向かって最初の信号のある交差点です。
小松ハカセ「これも色々説はあるのですが、この角地が旧国名でいうと摂津(せっつ)河内(かわち)和泉(いずみ)三国の境だったと言われる場所のひとつです。長尾街道の北側が摂津、南側が河内、西側が和泉です。でももう少し西だった時期がずっと長かったと思います」
――いくつも説があるものなのですか?
小松ハカセ「お寺の過去帳を見ると住吉郷大豆塚となっていたのですが、後に大鳥郡になります。住吉郷は摂津ですが、大鳥郡は後の泉北郡で和泉になります」
――なかなかファジーな感じなんですね、堺の起源。でも、この交差点でスキップで三国をまたぐこともできますね! そりゃ! 河内! 摂津!
小松ハカセ「この北東から向こうが大豆塚になります。そしてあの角地にあるお米屋さんが大豆塚の地主をされていた古橋さんです。政一さんがいらっしゃればお話しをうかがえるのだけれど」

 

■大豆塚の長老 古橋政一さん

▲小松ハカセもこちらのお米を買っているという「ふるはし米店」さん。

 

 

突然の訪問でしたが、古橋政一(ふるはしまさかず)さんは、快く迎えてくれ話をしてくださいました。
――古橋さんはおいくつになられるのですか?
古橋「私は94才になります」
――94才!! ということは戦争にもいかれてますよね。健康の秘訣はいったい何ですか!?
古橋「はい。軍隊に行っています。若い頃からタバコは吸ったことはないですね。お酒はよく飲みましたけれど。三食きっちり食べて健康です」
小松ハカセ「やはり朝昼晩お米なのですか?」
古橋「はい。パンは食べないですね。パンは練る時に塩が入っているでしょう。塩分がきついから食べません」

 

▲大豆塚の長老・古橋政一さん。

 

――さすがお米屋さんですね。いつ頃からお米屋さんをされているのですか?
古橋「大正8年頃やないかな」
小松ハカセ「その前は地主さんですか?」
古橋「そうやね」
――その頃の大豆塚はどんなところだったのですか?

古橋大豆塚摂津の南の端で、前の長尾街道の向こうが河内やった。電力会社も道のこっちと向こうで違っていて、たしかこっち(摂津)が大同電気で、向こう(河内)が宇治川電気じゃなかったかな。向こうはまだ電気がついていない時があって、一緒に遊んだ向こうの友達が家に帰ってホヤ(ランプの火を覆うガラスの筒)掃除をしていました」
――よそより先に電気が通るぐらい大豆塚は大きな集落だったのですか?

 

▲方違神社から大豆塚村へ向かう道。この三叉路の近くにも何軒か家があったそうです。

 

古橋「そうやね。割合に大きかったよ。70~80軒ぐらいは家があったんやないかな。こっから西は堺市駅前の八千代薬局の裏っかわに家があって、あとは刑務所の前の三叉路があるやろ。あの南っかわに10軒ほどあっただけや。せやから、方違神社の坂道を堺へ行った牛が戻って上って来るのを見て、黒い牛、茶色の牛、大きい、小さいでどこの牛かわかる。人より先に牛が帰ってくるのを見て、へっついさん(かまど)に火をおこしたんや。人間がより先に牛に飼い葉をやらないと」
――牛は堺まで何をしにいってたんですか?
古橋「車を引っ張って帰ってきたんや」
――へぇ、車には一体何を積んでたんですか?
古橋「それは……」

 

 

ここで【ぶらさかい】クイーズ! 大豆塚から出かけた牛が、堺から車に載せて持って帰ってきたものとは何でしょうか??
それは農村だった大豆塚の人たちにとっては無くてはならないものでした。

(答えは後篇で!)

さかマガ12月号 11/16発行!!
さかマガ12月号 11/16発行!!