【ぶらっと堺をあるこう!】『ぶらさかい』北区・大豆塚篇(後篇)「街道を東へ西へ」:

堺のまちをぶらぶらと散歩気分で魅力をさがす【ぶらさかい】。今回は北区五箇荘(ごかしょう)校区の大豆塚(まめづか)を、北区の物知りハカセ小松清生(こまつすがお)さんに案内していただいています。(前篇
小松ハカセと一緒に訪れているのは、大豆塚でかつて地主をされていたお米屋さん古橋さんのお宅。大豆塚の歴史を語ってくださるのは、なんと94才の古橋政一(ふるはしまさかず)さんです。
【ぶらさかいクイズ】は、古橋さんの語る牧歌的な大豆塚の情景から。
農村だった大豆塚では、飼育していたを連れて堺の町(旧市街)へ行き、何かを積んで車に載せて戻ってくることがありました。一体を積んできたのでしょうか!? というのがクイズでした。

 

▲古橋政一さん(左)と小松ハカセ(右)。

 

――では、答えはなんでしょうか?
古橋人糞(じんぷん)です」
――人糞、つまりうんこ!! 一体なんでうんこなんかを運んできていたんですか?
古橋「積んできた人糞を肥だめにためて、農家は人糞を肥料に使っていたです。このあたりから東の農家はみんな堺の町人糞を取りに行っていたようですよ。朝行って、昼前に帰ってくる。毎日じゃなくて、週に何回とかだと思いますけれど」
小松ハカセ堺の町は人口が多かったからですよね。常磐(ときわ)町の農家は天王寺まで人糞をとりにいっていたと聞きました」

 

 

■堺の町に近く豊かな村だった大豆塚

 

 

――その頃は、大豆塚はみんな農家だったのですか?
古橋「そうですね。酒屋とか雑貨店ぐらいは各村にあったと思うけれど、みんな農家やね」
――作っていた作物は何ですか?
古橋「米、麦に、きゅうり、なすびとかかな」
小松ハカセ「油紙のハウス栽培があったんですよね」
古橋「木で枠を作って、障子紙に菜種油をかけて油紙にして貼り、キュウリやなすびを種から寒い間育てました。あとは、じゃがいも、さつまいも、えんどうまめ、おたふくまめなんかも」
小松ハカセ大豆塚堺の町のごちそう供給地だったんです。特に大豆塚のきゅうりは有名でした。堺の町に近いということで、典型的な近郊農業(きんこうのうぎょう)ですね」
――人口があってお金持ちが沢山いる町に近いから作物が沢山高く売れる。そういうこともあって大豆塚は豊かな村だったのですか?
古橋「そうですね。小作農の家もあったけれど、だいたいが自作農。みんなそこそこの土地を持っていて、農家としての貧富の差もあんまりなかったですね」
小松ハカセ「そこは同じ五箇荘でも北花田とは違いますよね。北花田は大地主がいて小作農がいる集落だったようですね」
古橋五箇荘の中では、堺の町に一番近かったし、大豆塚は一番発展していましたね。このあたりの若い者の間では『大豆塚と喧嘩したらあかん』とゆうてました」
――豊かだったからですか?
古橋「昔は堺の町へ行く道が長尾街道しかなかったでしょう。大豆塚と喧嘩をしたら、大きな顔をして通れないからです」

 

▲鎌倉時代から続く大魚夜市。昔は長尾街道を通って布忍の方から歩いてやってくる人も多かったそうです。

 

――そうか。長尾街道の交通の要所ですものね。小松ハカセからは、堺の町の人が3月25日に道明寺にお参りに行く『はるごと』の話を聞きました。
古橋「逆に堺区大浜の(7月31日の)大魚夜市の時は、布忍(ぬのせ=松原市)の方から沢山人が来て。夜12時をまわる頃になって東へ帰って行くんです。その頃はまだ靴が無いから、みんな草履でね。道も舗装していないから、土埃がすごかった」

 

■布池と古橋家の系図

 

 

――古橋家は、ずっと昔から大豆塚のお家なのですか?
古橋「それがいつ頃からかはよくわからないんですよ。西願寺(さいがんじ)にあった昔の地図を見ても、昔近くに布池(ぬのいけ)というのがあって、そこから土居がぐるっと大豆塚を囲んでいた。(堺区の)土居川の小さいやつみたいなもんですわな。古橋家土居の外にあって、番外地だったと思います」
――番外地ってことは、新参者的なお家だったかもしれないですね。
古橋「実はうちの父親が昭和30年頃にお寺の過去帳を調べて家系図を作りかけていたんです。交通事故で死んでしまったので、私が引き継いで原稿を書いたんです。ちょっと見せましょうか」
――それはぜひ!! 小松ハカセも見るのははじめてですか?

 

▲巻物になった家系図登場!!

 

小松ハカセ「はじめてです。この字はどなたが書いたものですか?」
古橋「これは自分が書いたんです(笑)」
――めちゃくちゃ上手ですね! お寺というのは先ほど名前が出た西願寺ですか?
古橋「いえ。村にお寺は一つですが、大豆塚ではいくつものお寺の檀家になっていたのです。うちは今は堺区神明町に移転した超元寺(ちょうがんじ)さんなのですが、家系図にはその超元寺がどうやって出来たかから書かれています。大豆塚にいたある浪人が暁(早朝)にひらめいて全国行脚をはじめ越後の国(新潟)の柿崎(現在は上越市内に柿崎の地名がある)で後に蓮如上人(れんにょしょうにん)となる僧に出会い師事して僧となり、了西と名乗ります。その了西大豆塚に帰ってきて祠(ほこら)を建てたんですな。それが超元寺さんの前身の了西庵で、刑務所と南海高野線の間の今は公園になっている土地にあったそうです。私らは「おじがみ」と呼んでいたが、「王子が飢(おうじがうえ)」で熊野街道の「境王子」のことだったらしい。5代目の了慶の時に了西庵は堺の町の北荘に引っ越して超元寺となります。本願寺堺別院の南にあり、二階にお堂があります。その超元寺さんに「関係と思われる家」として十兵とか仁兵とか出てくるのですが、仁兵というのがうちの先祖らしいのです」

▲堺区神明町にある超元寺。「二階堂」と言われるように、二階にあるお堂が特徴的。

 

 

――そうすると、少なくとも江戸時代の早いうちには古橋家のご先祖様はいらっしゃったのですね。
小松ハカセ「お話しはつきませんが、そろそろ次の場所へ行きましょうか。先ほど古橋さんのお話しにも出てきた布池の跡など、大豆塚が農村だった痕跡を見ていきましょう」
――りょうかいでっす! 古橋さん、貴重なお話しありがとうございました!

 

■池の名は源氏山?

 

▲かつては土居の水路だったところが細い道になって残っています。

 

――古橋さんの家の裏手ひとすじ東から土居が通っていたんですよね。この細い路地は水路があった跡かな。
小松ハカセ「そうです。この先に布池があったのですが、このあたりでは布池のことをなぜか『源氏山』と呼んでいました」
――え、池なのに山なんですか!? そりゃまたどうして?
小松ハカセ「謎でしょう。その理由がようやくわかったのです。なんだと思います?」
――うーん……なぜでしょう?
小松ハカセ源氏山って実はお相撲さんの名前なのです」
――えっ!! しこ名が池の名前になったんですか? そりゃまたどうして? 源氏山さんが池でおぼれて死んじゃったとか!?
小松ハカセ「いえいえ。源氏山さんは本名岡本源蔵さんといって、布池魚の養殖(ようしょく)をしていたのです。それで布池源氏山と呼ばれ、岡本家源氏山と呼ばれていたとか」
――何のために、魚なんか育てていたんです??
小松ハカセ「食用ですよ。フナやコイ、ウナギにモロコ、エビも。養殖して売って、堺の町の食卓にあがったのです」
――野菜に魚も。小松ハカセの言うとおり、本当に大豆塚はごちそうの供給地だったんですね。しかし、昔あった布池も全部埋めて住宅地になり、農地も無くなって、大豆塚に昔の面影は無くなってしまいましたね。

 

▲土管はかつて池を埋めた時に使ったものを残したらしい。三つの力石が残る公園。


小松ハカセ「こちらの公園は布池の跡地なのですが、農村らしいものが残っていますよ。この石を見てください」
――丸い大きな石に字が刻まれていますね。勇石、力、若……。
小松ハカセ「これは力石です。どれぐらい重い石を持ち上げることができるのか、村の若者たちが力比べをしたものです。お百姓さんは力仕事ですから、力があるかは重要です。力自慢が力石を持ち上げるのを競うのが流行ったのです」
――こんな石を持ち上げたんですか!? 昔の人たちって力持ちだったんですねぇーーー。
小松ハカセ「では、最後に大豆塚の昔の姿を知る手がかりになる資料が見つかった所へ行きましょう」

 

■人々の願いで建てられた西願寺

 

▲真宗大谷派、通称「お東(ひがし)」の西願寺(さいがんじ)。ちなみに浄土真宗本願寺派を「お西(にし)」といいます。

 

 

小松ハカセ「こちらのお寺は真宗(しんしゅう)大谷派の西願寺(さいがんじ)さんです。住職(じゅうしょく)の藤原勲(ふじわら いさお)さんには、これまで大豆塚の過去を知るのに協力していただきました。浄土真宗は特に民衆に人気があった宗教と言われています。浄土真宗の教えは農家の方をはじめ民衆にとけこんでいたと思われます」

 

▲西願寺のご住職藤原勲さん。とてもていねいにやさしく仏教やお寺について話してくださいました。

 

――西願寺さんはいつ頃、どのようにして出来たお寺なのでしょうか。
藤原「ここは格式のあるお寺ではなく、最初は惣道場(そうどうじょう)として……惣道場というのは村の人が集える道場(拠り所)のことです……江戸時代の享保(きょうほ)年間に出来たと言われています」
――西願寺さんは、村の人たちが望んで出来た場所ということですね。人々が集う場所として惣道場が欲しいという願いで出来た。
藤原「村の人が救いや仏様の教えを求めていたことと、このお寺だけではなく、お寺にはいくつもの側面があります。例えばそのひとつに時代背景に寺檀制度(じだんせいど)など江戸時代の制度があるじゃないですか」
――寺檀制度ってなんでしょうか?
小松ハカセ「江戸時代に幕府はキリシタン禁止政策をとっていて、寺檀制度でどこかのお寺に所属しないといけなかったのです。それをてっていするために村ごとに村民の名前と性別・年齢・宗旨と檀那寺(だんなでら=所属するお寺)を書いた帳簿・宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)を作っていたのです。実は西願寺には、大豆塚宗門改帳の他、様々な資料が残っていました。それを調べさせていただくことで、人口の移り変わりなどもわかってきたのです」

 

▲堺メモリー倶楽部には、古文書を読んだり、昔の資料を分析できるメンバーがいて、西願寺の資料から大豆塚の様子がわかってきました。

 

――お寺には時の幕府、権力に協力して民衆を管理しているっていう側面があったってことですよね。それが大豆塚の歴史を知る手がかりにもなったのか。
藤原「お寺というのはそういう制度の中で、地域の役所みたいな役割をはたしていた政治的側面があります。しかし、それだけでなく、もともとのお寺の願いというものがあります。現代ではお寺は死んでから、亡くなった人のためのものというイメージが強いですが、仏教というのは『教え』なのです。亡き人を通して生きている人たちへのメッセージなのです」
――そうか。教えって生きている人が必要としているものですものね。
藤原「集える場所を願われて建ってきた。それが時代をまたいで継承されてきて今の形がある。今は今の時代に応じた形で、地域と関連できるような形をさがしています。それもお寺のあり方なのかなと思います。お寺ごとにアプローチの仕方は違うでしょうが」
――西願寺は真宗大谷派と伺いましたが、どういう教えがそこにあるのでしょうか。
藤原摂取不捨(せっしゅふしゃ)といって、何者も捨てないという誓いです。これは阿弥陀仏(あみだぶつ)という仏様がたてられた誓いです。(浄土真宗の宗祖)親鸞聖人(しんらんしょうにん)は、自分だけが救われるのではなく、万人の救いを求めて民衆と出会いました。人と出会っていくという生き方をされた人です」
小松ハカセ西願寺さんでは、地域の人が寄り合える場所として、会館を開放していますね」

 

 

藤原『オープンテンプルあいあう』という名前で、お寺の会館を『母と子どもの部屋』として開放しています。月に一回ですが地域の力になることをやっていければと思っています」
――惣道場として誕生したお寺の精神が今に受け継がれているように感じます。もう農地も亡くなってしまった大豆塚ですが、そこかしこに農村だった面影が残っているのも面白かったですね。西願寺さんに残っている資料の分析が進んで、大豆塚の歴史が明らかになってきたってすごいですね。小松ハカセ、藤原住職、今日はありがとうございました!

 

以上、ぶらさかい北区篇でした!! さて、次はどこのまちをぶらぶらしましょうか。

さかマガ12月号 11/16発行!!
さかマガ12月号 11/16発行!!